はじめに
平安時代と聞けば、優雅な貴族文化や『源氏物語』を思い浮かべるかもしれません。しかし、その幕開けは決して優雅なものではありませんでした。政治に入り込む仏教勢力、各地に残る反乱、そして財政の逼迫。桓武天皇はこの閉塞感を打破し、「新しい時代」を築くため、二つの巨大プロジェクトを同時に始めます。それが「都の遷都」と「蝦夷征討」でした。
なぜこの二つが同時に進められたのか?なぜ遠く東北まで軍を送り、なぜ二度も都を動かしたのか?それは、国家の根幹を揺るがすほどの危機に対する、大改革の答えでもありました。
1. なぜ「律令国家の再構築」だったのか?
桓武天皇が掲げたのは、「律令国家の再構築」でした。そもそも律令国家とは、中国の唐をモデルに整備された法律と行政の仕組みに基づく国家体制のことです。奈良時代にかけて一応の完成を見たこの制度は、しかし現実にはうまく機能していませんでした。
奈良の朝廷では、力を増した貴族や寺院が政治に干渉し、租税制度は破綻、地方豪族による私領化が進み、国家の統制力は大きく揺らいでいました。特に仏教勢力――大寺院の僧たちが政治に介入し、天皇の権威を脅かすまでになっていたのです。
桓武天皇はこの混乱を「旧体制の限界」と見なし、新しい体制――すなわち「真の律令国家」への再構築を志したのです。

2. 都の遷都――平城京から長岡京へ、そして平安京へ
2.1 平城京の問題
奈良の平城京には、政治を超えて権力を振るう僧たちがいました。東大寺、興福寺、大安寺といった大寺院は莫大な資金と人員を持ち、時には政変にも関与しました。国家財政も、仏教に奉納される荘園に吸い取られ、機能不全に陥っていたのです。
2.2 なぜ長岡京だったのか?
桓武天皇は784年、都を長岡京(現在の京都府向日市付近)に移します。選定理由は、交通の利便性と、勢力がまだ根を張っていない新天地だったこと。そして何より、仏教勢力から距離を置ける場所だったのです。
しかし、この新都では不幸が続出。遷都を主導した藤原種継は暗殺され、皇太子早良親王は謀反を疑われ幽閉中に死去。たった10年で「祟りの都」として放棄されることになります。
2.3 平安京へ――「平安」の祈り
794年、ついに現在の京都・平安京へと都は移ります。そこには「もう争いや災いのない時代にしたい」という願いを込めて、「平安」の名が与えられました。場所は盆地の中央にあり、外敵の侵入を防ぎやすく、風水的にも理想的とされました。

3. 遷都はなぜ可能だったのか?
都を作り直すには莫大な財政が必要です。では、なぜ国家財政が危機的だったにも関わらず、遷都が可能だったのでしょうか?
その理由の一つが「仏教勢力への支出抑制」です。仏教寺院への寄進や優遇税制を見直し、そこから浮いた資金を新都建設に回したのです。国家の事業として多くの人々が動員され、物資も中央集権的に管理されていたことで、短期間での大事業が実現しました。

4. 蝦夷征討と同時進行だった理由
ここで驚くべき事実があります。794年に都を平安京に移した直後の801年、桓武天皇は大軍を派遣し、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて東北(現在の岩手・宮城方面)に攻め入らせたのです。
遠く離れた東北の征服がなぜ必要だったのでしょうか?理由は明快です。中央政府の支配領域を明確に広げ、「律令国家としての領土を完成させる」こと。形式的な支配でなく、実際に田地を整備し税を徴収できる体制を作るためです。
また、征討によって国威を示し、天皇の権威を回復させる意図もありました。これは「外征による内政の引き締め」という意味もあったのです。

5. 年表:桓武天皇の即位から崩御まで
年代;出来事
781年;桓武天皇 即位
784年;長岡京に遷都
785年;藤原種継 暗殺、早良親王 幽閉・死去
794年;平安京に遷都
797年;坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される
801年;蝦夷征討(胆沢城の建設)
806年;桓武天皇 崩御
おわりに:「新時代」のはじまりと残された課題
桓武天皇は仏教勢力から政治を取り戻し、国家の姿を立て直そうとした「改革者」でした。都の遷都と蝦夷征討は、律令国家再建という目標のための手段であり、その壮大な国家構想は現代にも強い印象を残します。
この新しい都・平安京には、仏教勢力を近づけないという意図のもと、寺院はごくわずか――東寺と西寺の2つだけが置かれました。しかし、現代の京都は「日本一の寺の街」です。なぜ、かつて寺院を制限した平安京が、いまでは寺だらけになったのでしょうか?
それについては、以下の記事でご紹介します。
👉 実は平安京ができた頃はお寺は東寺と西寺しかなかったんですよ!なぜ今のような日本一のお寺の街になったのかは、また別の記事で

