平安時代を通じて権力の頂点に君臨した貴族・藤原氏。中でも「摂関政治」と呼ばれる形で天皇に代わって実権を握った体制は、現代の教科書にも必ず登場します。しかし、「娘を天皇に嫁がせて外戚として力を握った」とひと言で語られるこの政治体制は、決して一朝一夕にできあがったものではありませんでした。そこには、数世代にわたる執念と、政治的なタイミングの巧妙な読みがあったのです。
■ ① 藤原不比等の構想(8世紀初頭)
藤原氏の政治的台頭は、藤原不比等(ふじわらのふひと/659–720)に始まります。不比等は律令制度の整備に関与し、娘を元明天皇の皇太子に嫁がせることで、外戚としての立場を得ました。しかしこの時代、藤原氏はまだ天皇家の「外部の協力者」に過ぎず、朝廷内の他氏族(長屋王ら)との勢力争いに苦しみました。
■ ② 長屋王の変と政敵排除(729年)
不比等の死後、藤原四兄弟は政敵・長屋王を自害に追い込み、藤原氏の勢力を拡大します。この「長屋王の変」は、後に藤原氏が外戚として実権を握る土台を築く上での初期段階でした。
■ ③ 藤原仲麻呂と称徳天皇(8世紀中盤)
藤原仲麻呂(706–764)は淳仁天皇の下で大きな権力を持ちますが、孝謙上皇(後の称徳天皇)と対立し、最終的には敗死します。この頃も、まだ藤原氏は「完全な支配者」にはなりきれていません。
■ ④ 桓武天皇の時代と藤原氏の後退(794年〜)
桓武天皇(在位:781–806)は藤原氏の影響力を警戒し、側近には藤原氏以外の人物(和気清麻呂ら)を多く登用します。藤原氏は一時、政権中枢から退きます。
■ ⑤ 藤原冬嗣と嵯峨天皇(820年ごろ)
藤原氏が再び政治の中枢に返り咲いたのは、藤原冬嗣(775–826)の時代。嵯峨天皇に重用されて蔵人頭(くろうどのとう)に任命され、ここから藤原北家が急速に力を伸ばします。
■ ⑥ 藤原良房、摂政に就任(866年)
初めて「摂政」に就いたのは、藤原良房(804–872)です。清和天皇が幼少で即位した際、外祖父として政務を代行するため、866年に摂政となります。ここに「摂関政治」の始まりがあります。
ちなみに良房の娘は清和天皇の母。つまり、藤原氏が「娘を天皇に嫁がせる」戦略が、ようやく実を結んだ瞬間です。藤原不比等の代より100年以上の歳月を経ました。
■ ⑦ 藤原基経、関白に就任(880年)
次に続いたのが藤原基経(836–891)。彼は摂政ののち、天皇が成人した後も政治を補佐する「関白」となります(880年)。この「摂政→関白」の制度が以後、藤原氏の政治モデルになります。
■ ⑧ 100年かけて築いた「藤原政権」
以降、藤原氏は天皇に自分の娘を嫁がせては、その子が即位するのを待ち、外戚として政務を行うというサイクルを完成させます。娘を持つ家系=藤原北家が、この時代の政権運営を牛耳ります。
■ ⑨ 最盛期:藤原道長・頼通の時代(990年~1068年)
・藤原道長(966–1027)は、「この世をば わが世とぞ思ふ」でも有名な人物。
・彼の娘5人をすべて天皇の后にし、3代(後一条・後朱雀・後冷泉)にわたる天皇の外祖父になります。
・その息子・頼通(992–1074)は、関白として50年にわたり政権を維持。
この頃が、まさに「摂関政治」の絶頂期であり、藤原氏が朝廷を完全にコントロールした時代です。
この後、白河上皇の登場により摂関政治は終焉を迎えることとなります
まとめ:藤原氏の政権奪取は「200年の執念」
「摂関政治=娘を嫁がせて実権掌握」というのは、結果的な見え方に過ぎません。実際には、200年という長い年月をかけて、代々の藤原氏が周到に仕掛け、政治的タイミングを見極め、政敵を排除しながら少しずつ地位を固めていった結果なのです。
人の心も、天皇の好みも、政敵の思惑も読み切って、ついに政権を我が物とした――この執念と戦略こそ、「摂関政治のリアル」なのです。

